日本帝国陸海軍無線開発史

大西成美氏の「本邦軍用無線技術の概観」をベースに資料追加

株式会社日立製作所

株式会社日立製作所
日立製作所史2(昭和35年12月発行)からの抜粋
第5章 製品
第4節 通信機
1 電話機
逓信省によって、わが国の標準形電話機が2号形から3号形に切換えられたため、当社でも昭和14年以降は、2号形の生産を中止して3号形の生産に移行した。
3号形は送話器・受話器を一体としたハンドセットで、これまで木製または金属製だったケースもモールド製に変更され、性能は欧州各国で生産されている電話機のレベル程度に達したのである。
この3号形は、電電公社標準仕様の4号形が全面的に採用されるようになった25年ごろまで生産が継続された。
なお、15年には5枚磁石式電話機を完成している。
2 交換機
自動交換機は開発時代からようやく拡充時代に入り、まず公衆電話局用としては、昭和15年に東京深川局の3,600回線を逓信省に納入した。
これは市内交換局として、最大回線数である1万回線の端子容量をもつものであった。
また私設向け需要が高まるにつれ、200回線程度の私設用交換機の開発も行われ、ロータリ・スイッチを利用したライン・ファインダ方式を完成した。
一方、国情に適した新しいスイッチを開発する努力が行われ、2,000号形スイッチの試作から横動回転形スイッチまで発展したが、その後、戦争のため中断されて日の目を見ず終わってしまった。
こうして当社の自動交換機における地位は、ようやく確立してきたのである。
その後、軍備拡充に伴い会社・工場の私設交換機の需要が増大したが、そのおもなものをあげると、日本製鉄(株)輪西製鉄所納め600回線のほか、満州国本渓湖鉱山納め5,000回線などがある。
特に後者は、当時東洋一を誇る私設交換機であった。
太平洋戦争突入後は、資材がしだいに窮迫し、交換機生産は極度に困難となった。
このため代用品の研究・実用化に非常な苦心を払ったが、規格の低下は避けられず、同時に生産も逐次縮小され、最後はほとんど中止状態となり、各地の電話局は戦時中の保守用部品の不足、保守不十分のまま終戦を迎えた。
これは戦後、電話局のサービス低下の原因となった。
手動交換機も自動交換機と同様の運命をたどった。
このなかで16年に南米ブラジルに3連結300回線共電式交換機一式なわびに50回線共電式交換機1組を納入したことは、特記に値することがらである。
3 無線機
昭和14年、戸塚工場に無線機工場を完成し、本格的に無線機の生産を開始した。
翌15年、海軍艦政本部からの無線通信機の需要増加に伴い、これに必要な“R装置”の製作を開始したが、本機は製品の本質上、配電盤工場の作業に適するものであったため、しばらくして多賀工場に移管された。
戸塚工場ではその後、海軍技術研究所の指導により真空管試験機・対地高度計などの研究に従事した。
17年末から18年にかけては、小形艦船用短波移動用無線機(ES-1)を完成、月450台程度の生産を続けたが、この無線機は19年まで当社で独占的に製作し、戸塚工場の無線関係主要製品となった。
また18年に“萩-1金物”と称する機上送受信機を海軍航空本部から受注、20年には軍需省から陸軍関係の最前線用小形「地4号無線機」(椎-20金物)の製作命令を受けた。
本機は飛行機で前線に輸送しパラシュートにより投下供給されるものであった。
18年ごろから前線基地および艦船などの対空対潜機器の必要性が増し、電波探知機・音波探知機の多量の要求があった。
電波探知機については日立・多賀・戸塚の3工場が協力して総合研究を開始、発振部門を多賀工場、架台および指向アンテナを日立工場(後に高萩工場)、総合調整を戸塚工場が担当し、数種類を製作した。
また音波探知機については、その最も重要な部分である発振器に使用するニッケルが入手不能のため、ドイツで研究された「アルフェロ」(Al-Fe合金)の研究を日立研究所で担当し、一応の性能を得ることができた。
しかし電探・音探ともに空襲に次ぐ空襲のため、生産は意のごとく進まぬまま終戦を迎えた。
一方、これらの兵器に使用される部品類は、部品生産会社における工員の徴用や疎開、あるいは材料入手難などのため、しだいに供給不能となり、当社は軍の要望により次のような生産に乗り出した。
日立工場
電波探知機用特殊高圧変圧器
コンデンサ
抵抗器類
亀戸工場
一般無線用小形変圧器
茂原工場、日立研究所
マグネトロン
特殊真空管
リッツ線
多賀工場
小形計器類
しかし、計器・真空管を除いては、あるいは研究中のまま、あるいは量産の緒についたまま終戦となり、成果を発揮する段階にいたらずに終った。
4 電子管
昭和14年には、送信菅UV-205Aおよび熱陰極水銀蒸気整流菅HV-972Aほか3品種を開発し、軍に納入した。
一般需要用として、当社独自の整流電源用アルマー整流菅GH-50・GH-50など6品種を製品化した。
これらは直流発電機にくらべて非常に簡易に直流電源が得られため、市場で大いに歓迎された。
また軍用に開発した受信管UZ-30MC・UZ-133Dは、性能優秀で多大の名声を博した。
16年にも当社独自の5極送信管UY-555・UY-1085を開発、台湾の新設送信所用として納入した。
17年には電波探知機用として観測用ブラウン管BG-75AおよびUHF受信用エーコン管UN-954・UN-955を完成した。
これらは当時の最高技術による製品であった。
 
日本無線史<第一部> 昭和47年2月発行からの抜粋
d 日立製作所
日立製作所では、いわゆるエレクトロニクス部門の発足は比較的に遅く、昭和14年(1939年)ごろから製品として有線通信機を生産していた戸塚工場および真空管、ブラウン管などを生産していた理研真空工業株式会社(昭和18年茂原工場と改称)の合併から始まった。
無線装置の製品としては、昭和15年の終りごろから、外地の通信施設充足の一環として蒙彊電機通信設備株式会社・華北電信電話株式会社の500W短波無線電信機、朝鮮放送協会の50Wラジオ放送機などを製造した。
国際情勢の緊迫に伴い、同社の無線部門も暫次軍需用に集約され、携帯無線機、特殊電波計、電波無反射機構、各種レーダー、ソナーおよび3極放電管、エーコン管、ブラウン管、マグネトロンなど部品を軍指導のもとに中央研究所・日立研究所・戸塚工場・茂原工場などで調査研究開発に進んだ。
戦時中の同社のおもな製品は次ぎの通りである。
ア 各種艦艇無線機用電源整流装置
従来全艦艇では無線用電源として直流電源を使用していたが、これらを全部交流電源に置き換えることが必要となり、その発注数量も数千台に及んだため、同社では日立工場・多賀工場・戸塚工場の3工場で分担し、短期間内に集中生産を行った。
イ 短波移動用無線機(ES-1金物)
小形艦艇用として海軍技術研究所の指導で昭和17年開発にかかり、18年から月産数百台の規模で終戦まで生産を続けた。
ウ その他の無線機
量産体制にはいたらなかったが、いくばくかの生産を行った無線機として航空機用超短波無線機(U-3改、萩-1号金物)、落下傘部隊用短波無線機(地4号無線機、椎-20金物)などがある。
エ 電波探信儀(S-23、S-24金物)※S-23はS-3の誤記と思われる。
昭和18年、海軍が前線基地に用いる超短波射撃用電波探信儀を、日本電気・日本コロンビア・日本ビクター・日立製作所が海軍技術研究所指導のもとに協力開発し、直ちに生産にはいった。
日立製作所が電源装置、架台、アンテナおよび総合調整を分担していた関係で戸塚工場に総合調整用、立会検査用、納入後の使用部隊訓練用架台10数基を並べ、流れ作業敷に生産、検査、使用訓練を行って現地への供給に努力したが、時すでに遅く実用に供したのはわずかであると聞いている。
なお、この受信機に使用するエーコン管IN-954、UN-955を昭和19年から同社茂原工場で月産数千個の規模で生産した。
日立と松下(上)岡本康雄 昭和54年3月発行からの抜粋
電子部品工業と日立
日立の通信機部門への進出
戦前の電子部品工業の一つの代表形態は、通信機-無線部門に利用される電子官-真空管であった。
この真空管の製造分野では、戦前、GEの技術を導入した東京電気-後の東芝と、ウェスチングハウスの技術に依存した住友系の日本電気が大きな力をもっていた。
とくに無線機の大型化とともに、大型真空管の重要性が強まり、その特許実施権をもっていた両社、とりわけ東京電気の市場支配力は強くなった。
ラジオの不可欠な構成部品である、硬質受信用真空管の独占的供給体制を通して、東京電気は昭和10年頃ラジオ部門に圧倒的な力を持ち、多くのラジオセットメーカーをその系列下におさめていた。
もっとも中小容量の無線機製造の余地は他社にも残されていた。
昭和10年前後、三菱電機富士通信機(富士電機より昭和10年分離)がこれに参入した。
日立もまた、昭和12年の国産工業との合併を契機に、戸塚工場を拠点にして通信機部門に進出し、さらに昭和18年茂原工場において真空管・特殊電子管の製造にのりだした。
なお、戦前松下電器は、ラジオ部門への進出によって飛躍的に発展した。
しかしその真空管は、東京電気-東芝に依存せざるをえなかった。
松下もまた、戦時中真空管の製造を自ら始めたが、当時の松下の電子技術では、製品の故障も多く、東芝に拮抗するものはとてもつくれなかった。
戦前日立の電子工業部門
日立は電子工業の分野では、後発メーカーであった。
また前述した国産工業との合併によって誕生した日立の戸塚工場では、若い技術者達の樹種的な動きの結果として、有線通信機器のほか、真空管を使う無線機器の製作が、昭和13から14年頃から小規模の形で始まっていた。
そして無線機器に対する軍需が次第に具体化していた。
こうして日立の中にも、電子(部品)工業分野へ本格的に進出する芽が育っていた。
そして日立は、1940年(昭和15年理研真空をその傘下におさめ、さらに昭和18年吸収して茂原工場とした。
茂原工場の生産は、日立の傘下に入ってから、確かに技術的に進歩した。
例えば真空管製造の歩留りが悪い理由としてコツに頼る面が多いことがわかり、科学的な解決が進められた。
そして軍需の増大もあって、茂原の早野に旧理研真空の資本金3百万円の10倍の資本を投下し、新工場建設が昭和18年8月に始められた。
しかし全建設計画が完成しないうたに終戦となった。
それでも受信管工場、部品工場、電波探知機用ブラウン管工場などが建設された。
戸塚工場の役割
民生用電子機器への参入
もちろん日立においても、民生用電子機器部門の開発・参入の動きが二十年代に全くなかったわけではない。
その芽は戸塚工場で生まれた。
日立の戸塚工場は、昭和12年鮎川の国産工業との合併で、日立の有力工場となった。
当時の主力製品は、電話機、交換機などの有線通信機器で、さらに電動工具、自転車用電装品などをつくっていた。
したがって重電を中心とした日立においては、電子管の製造を行った茂原工場と並んで特異な存在であった。
奇しくもこの二つの工場が、第二次大戦後日立が行った二つの大きな多角化、すなわち戸塚工場が電子(応用)機器、茂原工場が電子部品といった形で、進出の母体となったことは興味深い。
戸塚工場では昭和12年ぐらいから無線通信機の研究が始まり、14年には無線課が設けられ、他の電機メーカーにくらべて比較的遅れていた無線部門への本格的進出が試み始めた。
そして短波無線受信機、船舶用受信機、短波無線電信送受信機、ラジオ放送装置などを小規模ながら開発した。
しかし第二次大戦への突入は、戸塚工場でも軍需のウェイトを強めた。
その中でも、海軍用掃海艇から舟艇にいたる多種の船舶や戦車などに搭載した短波移動用送受信機は、戦時中戸塚工場の主力製品となった。
このほか、航空機用短波無線機、電波探信器などもつくられた。
こういった軍需用無線機器は、過酷な条件の中でしかも高性能を発揮することを要求された。
こういった条件を克服することによって、日立の無線技術は着実に上昇した。
ただし、右の短波移動用送受信機以外は、量産されることなく、終戦となった。
日本無線史 第十巻 電波監理委員会からの抜粋
附録第三
海軍無線関係主要文献一覧表
魚雷艇装備移動特用電信機実験 河野稔 昭和19年3月

文中の無線機の型式と機器詳細について
海軍 小形艦船用短波移動用無線機(ES-1)
海軍 U-3改“萩-1金物”と称する機上送受信機
陸軍 「地4号無線機」(推-20金物)
電波探信儀(S-3金物)
電波探信儀(S-24金物)
受信管UZ-30MC・UZ-133D
5極送信管UY-555・UY-1085
観測用ブラウン管BG-75A
UHF受信用エーコン管UN-954・UN-955
2号2型改4(Mark 2 Model 2 Modification 4)レーダー
3号電波探信儀1型 Mark 3, Model 1  (220)
3号電波探信儀2型 Mark 3, Model 2  (32 or 105S2))

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海軍 小形艦船用短波移動用無線機(ES-1)

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海軍 U-3改“萩-1金物”と称する機上送受信機 制式呼称 一式空三號隊内無線電話機改二

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陸軍 「地4号無線機」(推-20金物)       制式呼称 ム23

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 エーコン管 UN-955

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参考文献
本邦軍用無線技術の概観 大西 成美
日本無線史 第九巻、第十巻 電波監理委員会
日本無線史<第一部> 昭和47年2月発行
日立製作所史2(昭和35年12月発行)
日立と松下(上)岡本康雄 昭和54年3月発行
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