日本帝国陸海軍無線開発史

大西成美氏の「本邦軍用無線技術の概観」をベースに資料追加

岩崎通信機株式会社

岩崎通信機株式会社
岩崎通信機五十年史からの抜粋
第1章 設立から終戦まで
新工場の用地確保
昭和17年2月、日本軍はイギリスの重要軍事基地シンガポールを占領したが、その際捕獲した兵器のなかに初期のレーダである電波探知機が発見された。レーダの着想は、1925年(大正14年)にアメリカで電離層の高さの測定に利用したことに始まるが、これをレーダに応用する研究は、1935年(昭和10年)ごろ各国で成功し、第2次世界大戦開始時イギリスにはレーダによる早期警戒網が確立していた。電波探知機がすでに実用化されていたことに驚いた陸軍は、防空上の見地から急速国産化の研究を指示、(株)日立製作所日本電気(株)、当社の3社が試作研究を命じられた。
当時烏山工場の生産量は設備能力一杯に達しており、これに電波兵器が加わるとなるとどうしても本格的な大工場建設の必要にせまられた。この状況は、17年2月18日付けの資本増加認可申請書からもうかがえ、次のように記述されている。
昭和16年前期に於ては陸軍の発注量激減し、一時工場の終始に重大支障を生ずる見込みにあるたるに付き鉄道省南満州鉄道会社、朝鮮総督府鉄道局等の通信装置の継続注文を受けて暫く生産の維持を量りたる処同年後期に入り兵器本部の追加発注と陸軍技術本部の電波警戒機の下命研究の成功により之が製作発注を受くるに至り、俄に工場の設備不足を痛感したるも差当たり昭和17年度兵器本部発注量増加分の制作に対する工場設備不足を充実する為に資本金六拾萬円の増資を絶対必要とし之が許可を申請する次第なり」
申請は受理され、新工場建設地として東京市杉並久我山を選定し、17年8月、5万2,000坪の敷地を手に入れることに成功した。
久我山工場の誕生
江戸時代の久我山村は江戸幕府の直轄領で代官によって支配される純農村であった。
住民は神田川沿いの水田耕作のほか、穀類、蔬菜栽培を中心とした畑作農業を営み、この形態は昭和初期までつづいていた。
昭和8年8月、帝都線(現・京王帝都電鉄井の頭線)の開通により久我山駅が設置されると、ようやく郊外住宅地としての変貌を見せ始めた。
しかし当社が久我山工場の建設に着手した17年当時は、人家はまだまばらで玉川上水南側には民家が一軒もなかった。
信工場建設地は、玉川上水南岸沿い庄ちゃん橋(現・岩崎橋)の東方雑木林から西は兵庫橋西方の久我山水衛所辺りまで、南は井之頭道(現・国学院大学久我山高校北側道路)を隔てて、人見街道までのほぼ長方形の区域であった。
予定地の大部分は夏物野菜栽培の1級地であり、また農林省からは防空緑地帯として指定されていた。
一方陸軍当局も新工場建設地は、埼玉県大宮以北か、または静岡県以西という条件をつけてきたが、岩崎社長は電気、水道の便に加え中央から至近距離にあり、烏山工場にも隣接しているという立地条件のよさをあげて久我山固執した。
このように向上建設地をめぐって紆余曲折はあったが、結局岩崎社長の主張がとおり、建設に着手することとなった。
こうして1年後の18年10月1,200坪(3,960㎡)の工場建屋が完成、これを機に従来代々木上原にあった本社事務所も久我山に集結し、名実共に岩崎通信機の本拠地となった。
 
3.電波警戒機を納入
当社におけるレーダむの試作研究は、かつて早稲田大学の研究所でテレビジョンの研究を行っていた早川技師長が中心となって進められた。
早川技師長の電波技術に対する豊富な知見と、技術陣の血のにじむような努力が功を奏し、昭和19年の春に試作機が完成した。
さっそく陸軍防空学校(千葉県稲毛)において各社の試作品のテストが行われたが、当社のものが最もよい性能を示した。
岩崎式電波警戒機と命名されたこのレーダは、激しさをます空襲にそなえて全国各地に設置されることになり、当社に増産命令が出された。
その後改良が加えられて、トラックに組み込まれた送信車、受信車、電源車、属品車の4台を一組とする車上型移動電波警戒機からさらに進んで分解空を可能型の移動式電波警戒機が完成した。
この移動式のものが最初に使用されたのはフィリッピン戦線で、当社から6名の社員が整備要員として現地に派遣されたが、うち3名は激戦のつづく戦場で戦死した。
当社社員の最初の戦争犠牲者であった。
この間電波警戒機の試作以来、機種転換まですべての原動力となって奮闘した早川技師長は20年3月、全社員からその功績を惜しまれつつ逝去した。
文中の無線機の型式と機器詳細について
超短波警戒機乙 タチ7
超短波警戒機乙 タチ18
 
参考文献
本邦軍用無線技術の概観 大西 成美
日本無線史 第九巻 電波監理委員会
岩崎通信機五十年史
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