日本電気株式会社七十年史(昭和47年7月発行)からの抜粋
第3章 戦時統制化の経営
第3節 軍需生産への協力
無線兵器と水中音響兵器の生産
玉川向製造所の生産および売上高が激増したのは、特に次のような事情によるものであった。
すなわち、日華事変の勃発から太平洋戦争への拡大により、戦線は満州から中国の大半とシベリア国境沿いに、さらに南はニューギニアなど太平洋諸島から北部ビルマに至る広汎な地域、北は千島を越えてアリューシャンの尖端にまで拡大された。
しかし、ミッドウェー及びガダルカナル島における敗退以後、軍のすべての計画は立て直さねばならなくなった。
いまや、戦争は主として開業及び空中に移り、かつ日本軍は守勢に立たされ、戦局は一大転機を迎えた。
その結果、わが国の兵器生産の主力は、従来の地上戦用の兵器から、航空機、航空機用兵器、さらに航空母艦及び小艦艇に変えられることとなった。
たとえば、無線通信機、電波探知機、高射砲と電波探知機とを連結した標定機(当時、社内では「た号」と呼んでいた)、方向探知機などの電波兵器や、水中兵器として水中聴音機、測深機、探信機などの音響兵器が第一線の兵器として重視されだしたのは、そのような理由からであった。
そのため、航空機工業と共に、無線兵器工業は最重点の地位を与えられるに至った。
これより先、すでに国内の軽工業はあげて重工業化され、航空機工業と無線工業には、戦時統制による物資の最優先割当がなされていた。
当社の無線部門が、短期間に拡張を重ね得たのは、そのためである。
特に玉川向製造所の拡充に投入された建設資金は、昭和17年から終戦の20年までの4年間に、1,280余万円に上った。
そして、昭和17年1月から終戦に至る期間において、玉川向製造所は搬送機器、無線機器及び電波探知機、水中聴音機及び超音波機器、真空管、電気部品など4億8,134万円を生産したが、そのうち4億円すなわち83%は軍用に供するものであった。
また、昭和15年から20年に至るまでの当社の全生産額を、軍需と官・民需に分け、さらに軍需を軍需省、海軍省及び陸軍省に分けて示すと第10表のとおりで、少ない年でも全生産の60%、終戦まぎわには97%が軍需に向けられていた。
研究所の設置と拡充
昭和13年までの当社における技術・研究部門の変遷については、前章ですでに述べたが、その後、昭和14年7月1日に機構改正が行われた際、技術部の玉川向工場研究課は独立の研究所に発展し、初代所長には丹羽保次郎が就任した。
それ以来、当社の技術研究は飛躍的な進歩を遂げたのである。
当時は、前年に国家総動員法が公布されて戦時色が一段と濃くなり、当社は軍の要請によって電波兵器などの研究に協力することとなった。
しかし、国際関係の悪化、特に日米関係の緊迫は、当社とI.S.E.社、W.E.社や、その他外国会社との技術提携を事実上中断させることになった。
その結果、当社としては外国技術に頼ることなく、独自の技術を培養してこれらの開発を図らなければならなかった。
そのためには通信技術と、これに関連する広い分野の研究を総合的、効率的に行うことが必要となり、研究課を拡充して総合的な研究所に発展させたのであった。
この研究所で研究・開発した電波兵器の代表的なものに電波探知機(レーダ)があった。
研究所が開設される前年の昭和13年(1938年)、小林正次(現顧問)が通信機の研究のために欧米に派遣された。(イギリスは翌1939年、ドイツに対して宣戦を布告した)
その際に、小林はテレビジョンの研究が、アメリカよりむしろ風雲急なヨーロッパ、特にイギリスにおいて盛んにおこなわれ、しかも最近その研究所の見学が禁止されたことを不思議に思った。
そして、たまたまテレビを見ている時に飛行機の避雷によってテレビの画像がくずれたことから、電波探知機開発のヒントを得た。
このヒントを手がかりに、小林は帰朝後さっそく研究室の屋上にアンテナを立て、試作した波長3m、出力20KWの超短波送信機を用いて電波を試験的に発射したところ、飛行機が飛ぶたびに受信機がワーン・ワーンと鳴った。
そこで技術陣は「超短波が飛行機に当たって反射してきたに違いない」と確信、電波探知機の研究・開発を進めた。
そして、電波探知機などの研究を推進するためには、電波障害の少ない場所が望まれたこともあって、翌昭和15年、川崎市生田(現在の専修大学の敷地)に研究所の分所をセットすることが決まり、翌16年7月、超短波その他無線関係の研究陣がそこに移った。
次いで昭和18年には、真空管材料の輸入途絶により、その代用品の開発と製造を行うため、研究所高崎工場(高崎市大橋所在)を開設し、翌19年には、さきに水中測深機などの記録紙に塗布する薬品の原料であるヨードの研究をするため開設した千葉研究室を千葉分所(千葉県長生郡東村在所)に昇格した。
そした昭和19年末には、玉川向製造所構内に残っていた研究所の一部も生田に集結し、ここに画期的な研究組織の拡張が一応完了し、その結果、研究所の従業員数も1,250名という大所帯になった。
なお、このころになると、電波探知機に関する技術は著しく進歩し、250Km先の飛行機を捕らえることができるまでに至った。
やがて、本土がB29の空襲にさらされると、犬吠埼に据え付けた当社の電波探知機が活躍し、いち早く警戒警報を合図して国民の生命を守った。
その後、特攻機が発進するころになると、当社はこれに代わる有翼爆弾の姿勢自動制御を無線遠隔操縦装置の試作研究をも行い、数次の野外実験を重ねたのである。
これについては完成をみる前に終戦を迎えることになった。
これら電波兵器の生命である真空管の製作に必要な特殊材料は多々あり、そのうちたとえば絶縁体、タングステン、モリブデン、ジルコン、ニッケルなどは、従来ほとんどが輸入品であったので、技術陣は上記の高崎工場などにおいて、それらの代用品を手当たりしだい開発しなければならなかった。
この悪条件のなかで、アメリカと対等の電波兵器を作り出すのには並々ならぬ苦労があった。
しかし、やがて戦争が終わった時、戦時研究の成果は残った。
戦後まもなく当社がマイクロ波多重通信、テレビなどの平和利用の電子工場に、いち早く転換できたことは、こうして研究所において戦時中に独自の技術を培養した成果にほかならなかった。
なお、当社は戦時中に真空管、無線通信、増幅器、変調器、回路網に関する論文のほか、継電器回路の理論などの数多くの論文を社外に発表して業界に貢献した。
これらの論文の多くは、従来学会雑誌に発表していたが、研究所を開設した当時は、世間では研究機関相互の連絡、技術の公開が盛んに叫ばれていたころなので、当社の研究で他の参考になろうと思われるものは、なるべく発表するのが社会に貢献する道であると考え、当社はそれらを「研究季報」として刊行することとし、昭和16年7月にその創刊号を発行した。
しかしその後、戦局の熾烈化に伴い、わずか8回発行しただけで同19年に廃刊(戦後は技術誌NECに継承)することになった。
日本電気株式会社百年史 2001年12月25日 日本電気社史編纂室からの抜粋
第2節 国家統制への対応と住友通信工業への改称 p207
軍部による企業管理の進展
軍部の介入は、1938(昭和13)年から直接的になった。4月30日に芝浦工場が陸軍管理工場に指定され、9月20日に玉川向工場が陸・海軍共同工場に指定されると、陸・海軍から監理官が派遣され「工場事業場管理人ノ選任及び解任、其ノ他事業場経営ニ関スル重要事項ニ付キ其ノ関与」を受けた。41から42年ころからは、職制、人事などについて軍の干渉を受けるようになった。陸・海軍の主計大佐、主計の尉官数名が駐在して、資金、資材の出入りが直接監視下に置かれたが、いまだ技術将校は派遣されていなかった。
1942年になると、軍の命令に従った設備投資が計画、実施されるようになった。投資の決定権が軍部に移行したのである。42年9月、日本電気は、45年までに超短波兵器年産能力1億円を確保せよ、という陸軍大臣命令を受けた。1億円の内訳は、超短波によって敵機を数百キロメートル前方で察知する「警戒機」、超短波により敵機をとらえたうえで高射砲の照準を定める「標定機」、そして真空管であった。これを受けて、日本電気は大日本紡績大垣工場を買収し、これを主体として、日本レイヨンから買収した高崎工場で素材を生産し、松村硬質陶器から買収した瀬戸分工場で絶縁物を生産する計画をたてた。また、海軍からも、超短波兵器年産能力1億円確保、そして音響兵器1500万円の増産の内示があったし、陸軍航空本部からは、航空無線機生産能力を45年度までに1700万円から1億円に拡大することを求められた。これらに「要スル資金ハ合計約2億5千万円ノ巨額ニ達スル見込」であった。
1943年10月31日に公布された軍需会社法は、後述のようにトップマネイジメントに大きな影響を与えた。そして軍部は、工場の管理にまで直接介入するようになった。翌44年1月17日の第一次指定で、主要な製造所、工場が軍需工場となり軍部の直接的管理下に入った。同年4月25日の追加指定によって、住友通信工業の全事業所が軍管理下に置かれた。
工場では、常駐した技術将校によって、「同じ建物の中を真ん中から分けましてね。こっちは海軍工場、そっちは陸軍工場」というような直接的な指揮・命令が行われた。また、生田の研究所においては、従業員が「陸軍関係者はR、海軍関係者はKの印のバッチを着けて区分されていました。私たち技術者は、陸軍の仕事もすれば海軍の仕事もしましたから、二つのバッチを持っていて、適宜使い分け(中略)、陸・海軍がおたがいの所管資材を侵されることを警戒して、資材の持ち分けには眼を光らせていた(中略)、Rの指令による実験と結果は、Kの試作には適用させない(中略)、技術についても、それぞれの持ち分を利用させまいという姿勢」であった。航空機・電波兵器増産が最優先されるなかで、一つの兵器生産計画があるのではなく、陸軍の計画、海軍の計画が実施される事態になっていたのである。
第3節 軍需生産への転換と生産現場の混乱 p213
兵器生産の内実
表4-8は、戦時期における機種別に兵器生産の内容を示したものである。生産がピークを記録した1944(昭和19)年をみると、航空機用の方向指示機の生産額がもっとも多額であり、航空機用の無線装置・標定機、地上の方向探知機・標定機の4機種がほぼ同額であった。海軍向け航空兵器としては、主として「1式空3号無線帰投方位測定機、電波探信儀関係並びにブラウン管等」が生産されたが、1式空3号が方向指示機の中心であった。機上無線機の生産も玉川向製造所で行われた。パッシブソーナー(水中聴音機)の生産は沖電気株式会社と二分し、アクティブソーナー(探信儀)にも取り組んだ。また、43年に制式化された九三式探信儀を生産し、その生産規模は月産30から50台になった。三田製造所では、37から42年に信管部品を生産し、陸軍造兵廠に納入したが、その生産規模は月産約20万個で、最大の精工舎の3分の1であった。三田製造所では八八式高射砲信管、九二式対戦車砲信管も生産した。
レーダの開発、生産についてみると、陸軍の超短波警戒機甲は波長5m、探知距離10km、800Hzのビートによる航空機来襲を探知するレーダで、1940年から400から500台が東京芝浦電気株式会社と日本電気(200台)で製作され、また超短波警戒機乙要地用は出力50kWのパルス型であり、警戒距離は150/300kmであった。42年から使用され、350台生産されたが、その大半(309台)は日本電気製であった。タ号Ⅰ型(地上用電波)標定機は出力5kW、波長は1.5mであり、43年から実用化されたが、生産された35台すべてが日本電気製であった。同Ⅲ型(TA-Ⅲ)も150台前記を日本電気が生産した。44年以降における海軍用生産機種をみると、玉川向製造所では、陸上用97式短号送信機1型(出力2kW)、97式短01号送信機(出力15kW)、11号電探送信機、12号電探受信機、13号電探指示機、22号電探指示機、41・42・43号電波探知機(電探)が生産されたとされ、大垣製造所では43号電探が生産された。
軍需発注の経理処理には大まかなものであった。たとえば、レーダ用真空管、50kWの送信菅などは寿命が短かったので、使用場所を考えて空冷式のものを開発し、改良してようやく寿命を1週間に延ばしたが、これの当初値段は5000円であった。しかし、1000円以下の原価になったため、2500円に減額したのち、さらに1250円に減額を申請したところ、軍から「今まで通りの値段でいい」とされ、「製品の価格は、申し出た通りで購入される」状況があったのである。
しかしながら、すべてにわたって高収益であったわけではない。1941から42年に生産された「二号潜水金物(潜水艦用水中聴音機)」、「C型送信機(大型中ノ小物ノモノ)」、「MOS金物探信儀」のように、多量製品の場合には、高収益の製品もあったが、小ロット生産、開発試作では損失を出す場合もあった。たとえば、「16号方受金物(機上方向探知機)」、「改KA金物水中聴音機」、「高声令達機携帯用二型改一」、「M水金物二型(九二式探信機二型発信装置)」などの事例では損失が出た。なかでも「16号方受金物(機上方向探知機)」では、38%という高率の損失が発生した。
研究所の独立と拡充 p239
1939(昭和14年)7月、技術部玉川向工場研究課は研究所として独立した。初代所長は丹羽保次郎であった。41年6月には、超短波の研究のため生田分所を設置した。玉川右岸の生田は電波障害が少なく、多摩川向に近接した立地であったからである。生田分所は、電波探知機(レーダ)をはじめとする電波兵器の研究に特化し、「100パーセント電波兵器研究所」といわれた。
戦時体制に入ると、既述のようにISE社、WE社との関係が疎遠になり、最終的には途切れた。このため、日本電気では技術を自力開発する必要に迫られた。研究項目は、資材、真空管、電気通信機器に分けられる。
しかし、表4-30によって戦時期の研究所経費をみると、売上高研究費比率は40年は6.5%と高かったが、1944年には2.1%に低下した。当初の研究所に賭けた経営者の意気込みうかがえると同時に、戦時下で研究費の捻出が困難になったことを示している。
研究費は実質的に削減されたが、研究の意慾は高かった。とくに、レーダの研究が活発に行われた。これは戦後の日本電気にとって重要な技術的遺産になった。日本電気は1940年に予定されていた東京オリンピックに向けて、テレビの開発に取り組み、38年にオリンピックの中止が決まったからも大沢寿一を中心に研究はつづけられていた。39年入社の森田正典(のちの専務取締役)はテレビ送信機の試作開発を命じられ、野外実演でテレビ画像を受信することに成功した。
また、1939年に、小林正次は訪欧の際、「テレビの研究がイギリスでさかんであるのに、最近その研究所の見学が禁止されたことを不思議に思った。そして、たまたまテレビを見ている時に飛行機の飛来によってテレビの画像がくずれたことから、電波探知機開発のヒントを得た」という。他方、テレビの開発過程で受信機の受信感度を実験中に、「受信音がビート音のように「ワンワン」と聞こえることがあり」それが送信機と受信機を結ぶ直線上を飛行機が横切るときだということがわかったため、テレビの開発から一転して電波探知機の開発に向かったのである。この探知機は、超短波を利用したもので、電波の干渉を利用して飛行物体の存在を知るものであった。この「ワンワン・レーダ」と俗称された電波装置は、39年12月、超短波による航空機の探知に成功した。日本における最初の実証であった。
しかし、陸軍からの通知で、シンガポールで日本軍が得た戦利品から、イギリスでは超短波のパルス発射により、目標の距離と方向を探知できるものを開発したことが判明した。研究所では1941年4から5月ころから研究を超短波パルス発射のレーダの実用化に切り替えた。海軍技術研究所の要請もあって、7から8月に送信所を玉川、受信所を生田に置いて試験し、10月には送信所を生田、受信所を宇都宮から100kmの白子に置いて、宇都宮までの飛行機の反射を確認した。小林は「8月9日、生田上空で会社の飛行機の反射波がスクリーンの上に出た。その瞬間の喜びは例えようがなかった。」と日記に記している。この電波探知機はB-29来襲の際、その早期発見に役立った。しかし、連合国はさらにマイクロ波を利用するまでに進展していたのである。
また、「板極管」の開発と生産が生田を中心に行われた。しかし、従来の三極管では有効利用の波長の限界は1.5mであったが、レーダの精度向上のために数10cmの電波を用いる必要かあり、1944年4月に、ドイツからシャイベンレーレといわれる三極管の使用の情報を得た。これを推測しながら試製してできたのが、JRBという板極管であったが、「成績ハ良カッタガ試作管ガ出来上ガッタノミデ、終戦トナッタ」のである。
純技術的にいうと、メートル波とセンチ波の相違、システムエンジニアリングの欠如、正確な測定技術にもとづく定量的設計の欠如など、技術開発の遅れは否めないが、マイクロ波通信がレーダの延長上にあったから、無線誘導機、無線誘導爆弾の開発を含めて、自力開発の経験は貴重であった。
しかし、戦局の悪化とともに、研究開発も軍部が直接「統制」するようになった。1943年7月には、陸軍は陸軍技術研究所や航空技術研究所に分散している電波関係の研究部局、人員を集約して、電波兵器開発を促進するため、多摩陸軍技術研究所を設立した。多摩技研は「研究室」制度を採用し、参与・嘱託制を併用して大学や民間企業の研究機構も動員した。東京芝浦電気の電子工業研究所が川崎研究室とされたのと同様、住友通信工業研究所生田分所は生田研究室とされ、小林が嘱託に任命された。44年12月には研究所の主力は生田に集結して、研究を進めようとしたが、戦争末期には、空襲、実験機材・人員などの不足で研究が行えない状況にたちいっていた。
技術開発面で、日本がアメリカに及ばなかった理由の一つは、森田正典が指摘しているように、オープンな協力体制のもとで技術開発を進めたアメリカとは違って、日本では陸・海軍のセクショナリズムがついに解けず、オープンな協力体制が欠如していたことにあったのである。
<追加資料>(令和4年04月04日)
「日本電気ものがたり」からの電波兵器の関連のところを抜粋
小林正次さんの「日記」<未完の完成>から、研究所生田分所の解説から終戦にいたる経緯を辿ってみます。
昭和18年12月20日
真鶴に行き25センチの対空試験を行う。15粁まで中型攻撃機が追跡できる。空二四号として飛行機搭載を決める。
昭和19年5月2日
犬吠埼にタチ二〇の実験、三〇〇〇メートルの飛行機を50キロまで高度を正確に追いかけることが出来た。
昭和19年7月8日
タチ二〇は急速整備をすることとなった。一〇〇キロまで高度が測定できるものは世界に類がないので大いにやることになる。
昭和19年8月15日
タチ二〇は最重点兵器となった。伊藤大佐同行、横須賀-野比に行き二四号の対艦試験を行う。対駆逐艦二六キロの成績を得た。二四号も重点兵器となる可能性あり。
昭和19年12月6日
昨日イ号が熱海の玉の井旅館に命中して火事を起こしたという。B二九の電波暗視機を見る。波長三センチ、受信管は金属管を用いた導波管を使いこなしてある。大変参考になる。
昭和20年7月9日
原島君から波長五センチの受信管の完成報告を受ける。外国にも例のない立派なものが出来上がった。大変愉快である。これによって重要兵器が出来上がるであろう。
昭和20年8月15日
我が国は、あまりにも科学技術を軽んじた。今後の行きかたは科学技術の育成ということを第一にかんがえなければならぬ。各人の仕事に改めて目標を至急着けてやる必要がある。新しい日本への具体的な仕事の目標を示してやる必要がある。
続日本無線史<第一部> 昭和47年2月発行からの抜粋
Ⅵ生産機種 戦中
太平洋戦争勃発以後は、無線機器生産の伸張が有線のそれを凌ぐ傾向をますます強めた。
無線通信機、電波探知機、標定機、方向探知機などの無線兵器や、水中聴音機、測深機、探信機などの音響兵器も重視され、特に無線兵器工業には最重点がおかれた。
終戦までに同社玉川向製造所は搬送機器のほか無線機器、電波探知機、水中聴音機、超音波機器、真空管、電気部品など4億円を生産したが、そのうち80%以上が軍用であった。
昭和20年、戦争が最終段階にはいったころには、同社の主力工場であった玉川向および三田製造所は、前者は生産設備の大部が空襲で焼失し、後者は戦災こそ受けなかったもののともに工場疎開によって作業能率は著しく低下し、その生産は全く減退するにいたった。
玉川向製造所、三田製造所および岡山製造所などで戦時生産された主要な無線機器は以下のとおりである。
陸軍関係
飛3号無線機 VHF送受信機、航空機用 数百台
地2号無線機 HF帯送受信機、地上用 数百台
飛2号機上方向探知機 中波帯、可視式、小型機用 約200台
地1号地上方向探知機 短波帯、ゴニオメータ式、固定方向探知機 約150台
2KW短波無線機 遠距離短波通信用、地上用 数十組
航法用1KW無線機 機上方探用、地上標識 数十台
試製-195号無線機 2.5~10Mc妨害用送信機 10数台
電波警戒機-甲 VHF帯、電波干渉利用、地上固定用 数十組
電波警戒機-乙 75Mc帯、要地用遠距離電波警戒機、地上固定用 100数十組
タチ20号装置 同上
た号-1型標定機 150Mc帯、探照灯用、航空機標定機、地上用 10数台
た号-3型標定機 75Mc帯、高射砲用、航空機標定機、地上用 数十組
タチ35号装置90Mc帯、航空機高度電波警戒機、地上固定用 数組
タチ39号装置 中波双曲線航法装置、地上設備 1式
HDFF金物 ビーコン波帯、中波帯、可視式、固定方向探知機、小型機用 約6,000台
16号方受金物 短波帯、ゴニオメータ式、可聴型、固定方向探知機、地上用 数十組
97式短2号送信機 遠距離用短波電信送信機 2KW
短1号送信機 遠距離用短波電信送信機 5KW
特短1号送信機 遠距離用短波電信送信機 15KW
S-3装置 150Mc帯、高角砲用、航空機標定電波探信儀、地上用 数組
S-24送信機 150~200Mc帯、電波探信儀送信機 100数十台
L-1金物 電波探信儀用指示器 数百台
M-22号、M-130号、M-213号指示器 電波探信儀用指示器各種
R金物、β金物 電波探信儀用精密測距器
SH-4金物 波長10cm、速度変調管使用、電波探信儀用受信機
241号金物 波長28cm、艦船用電波探信儀
戦時標準型無線機 商船用無線通信機 100数十台
文中の無線機の型式と機器詳細について
無線通信機 陸軍 地2号無線機、2Kw短波無線電信機
電波探知機(犬吠埼に据え付けた当社の電波探知機)陸軍 タチ6
高射砲と電波探知機とを連結した標定機(当時、社内では「た号」と呼んでいた)
方向探知機 陸軍 タチ3
海軍 4号電波探信儀3型
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