三菱電機株式会社
三菱電機株式会社社史創立60周年(昭和57年発行)からの抜粋
第2章 戦時下の発展と受難
3. 戦時体制に組み込まれる経営
太平洋戦争への突入直前の昭和16年11月、当社は定款を改正し、代表取締役として取締役会長、常務取締役のほかに取締役社長を追加した。
この初の社長に常務取締役宮崎駒吉が就任した。
ただしこの定款改正では、社長は会長同様、業務に支障のないかぎり欠員となしうることになっていた。
太平洋戦争がはじまり戦況が激化するにつれて、当社の経営はそれまでにもまして戦時体制に強く組み込まれていった。
昭和18年7月に本店営業部から軍需部門を分離して軍需部とし、営業部を電機部と改称したが、これは営業部という呼称が軍部からきらわれたためであった。
同年8月には、産業の事業主と従業員との一体的結束を図り、事業主を生産の陣頭指揮に挺身させる目的で社長徴用が実施され、宮崎社長に対しても徴用令書が授与された。
昭和19年にはいると1月に、前年10月公布の軍需会社法に基づき当社は第一次軍需会社の指定をうけ、陸軍・海軍・軍需大臣の指定令書を受領、同法の規定により社長を生産責任者に選出した。
こうして当社は経営全体が軍の管理下におかれ、最後の“決戦増産”に邁進することになったが、さらに19年2月には会社等臨時措置法が公布され、勅令で定めた事項は株主総会の議決を経ることなく実施されるにいたった。
社長を生産責任者としたことに伴い、常務取締役以上全員が会社の代表権を失うこととなった。
しかし当社としては取締役社長、常務取締役の役職名はそのまま存置することとした。
同年5月には定款の改正を行って取締役社長を常務取締役同様、常置することとしている。
この間、戦局は昭和18年2月のガダルカナル島撤退を転機にしだいに憂色を濃くしはじめ、19年1月には東京と名古屋に初の疎開令が発令された。
さらに同年11月B29による空襲が本格化し、戦局の悪化が本土においてもひしひしと感じられるようになってきた。
4. 戦時下の生産と技術
戦時中、伊丹製作所は陸海軍向けの無線機類・計器類の開発生産にたずさわり工場従業員の6割以上がこれに従事していた。
昭和15年ころから航空機用無線機、爆弾投下機、油糧計および航空機用ジャイロ、各種指示計器等の生産を開始したが、このうち重爆撃機用無線機10台を製作納入したのが、当社における軍需生産のはじまりであった。
16年から18年にかけて、軽爆撃機用無線機および戦闘機用無線機を月500~1000台生産したのをはじめ、地上対空無線機、敵レーダ探知装置、機上用レーダ装置、友軍識別機、地上用単指向性レーダの試作や製造をつづけた。
このころは開発研究も製造も一体となった開発測実用化の時代であった。
伊丹製作所構内の本店研究部は18年11月陸軍多摩研究所塚口研究室に、その後海軍目黒研究所の分室にも指定された。
当時の研究テーマは真空管、無線通信・無線応用機器、イグナイトロンとその応用、材料の研究とその応用、さらに指向性直視装置、航空機用自動方向探知機、超短波受信機などであった。
19年3月本店研究部は研究所に昇格した。
一方17年12月に本店生産技術部を発足させ、設計・製造管理面も着実な前進をつづけたが、戦争がたけなわとなり労働の構成と質が変容していったため、生産管理技術の効果的な展開は戦後にまつことになる。
5.新工場のあいつぐ設立
太平洋戦争が激烈になり兵器の損耗が甚大となるに従って、国をあげての生産力増強のため、発電設備、工業設備、軍需品の受注が著しく増大した。
当社は既設工場の拡張だけでなく、新工場を次々と設立してこれに対応した。
これら新工場の多くは、当時操業を停止していた紡績工場などを買収したもので、神戸製作所などそれぞれの親工場の指導と統制のもとに生産活動をすすめた。
この時期に開設した工場には、つぎのものがある。
[福山工場]18年2月、福島紡績の工場を利用して神戸製作所の分工場として発足、航空機用電装品の生産を担当した。
[中津川工場]18年2月、岐阜県蚕業取締所跡に名古屋製作所の分工場として発足、同製作所の製品の一部を遺憾して生産増強を図った。
航空服の生産も行った。
[郡山工場]18年4月、片倉製糸の工場を利用して世田谷工場の分工場として発足、パラシュート生産の拡充を主目的とした。
19年4月には世田谷工場から独立して、噴泉爆弾の風船部の製造も手がけた。
[和歌山工場]18年6月、昭和紡績の工場を利用して神戸製作所の分工場として発足、航空機用慣性モーター等の生産を行った。
[姫路工場]18年12月、大和紡績の工場を利用して神戸製作所の分工場として発足、「マグネトー」の生産を行った。
[福岡工場]19年2月、長崎製作所の分工場として発足し、探照灯や炭鉱用電気機械器具を製造した。
これらの新工場の解説にさきだって昭和17年4月には各種銅合金、ゴム製品(化成品)の専門工場として世田谷工場が誕生している。
同工場の前身は岩崎家の援助により大正8年に設立された東京イー・シー工業で、同社は合金及びゴム製品の製造を開始し、昭和にはいってからは救命ボートや救命胴衣なども生産していた。
その後15年に当社がこの会社の経営をひきうけ、17年に吸収する運びとなったものである。
世田谷工場は19年にはベリリウム銅線の製造を開始し、またパラシュートの製造もおこなった。
かくして当社の生産体制は著しく拡大したが、規模の急膨張は熟練工や技術者、研究者の不足をきたし、空襲の激化とともに生産機能はしだいに行き詰っていった。
三菱電機株式会社社史創立60周年(昭和57年発行)からの抜粋
第2章 戦時下の発展と受難
3. 戦時体制に組み込まれる経営
太平洋戦争への突入直前の昭和16年11月、当社は定款を改正し、代表取締役として取締役会長、常務取締役のほかに取締役社長を追加した。
この初の社長に常務取締役宮崎駒吉が就任した。
ただしこの定款改正では、社長は会長同様、業務に支障のないかぎり欠員となしうることになっていた。
太平洋戦争がはじまり戦況が激化するにつれて、当社の経営はそれまでにもまして戦時体制に強く組み込まれていった。
昭和18年7月に本店営業部から軍需部門を分離して軍需部とし、営業部を電機部と改称したが、これは営業部という呼称が軍部からきらわれたためであった。
同年8月には、産業の事業主と従業員との一体的結束を図り、事業主を生産の陣頭指揮に挺身させる目的で社長徴用が実施され、宮崎社長に対しても徴用令書が授与された。
昭和19年にはいると1月に、前年10月公布の軍需会社法に基づき当社は第一次軍需会社の指定をうけ、陸軍・海軍・軍需大臣の指定令書を受領、同法の規定により社長を生産責任者に選出した。
こうして当社は経営全体が軍の管理下におかれ、最後の“決戦増産”に邁進することになったが、さらに19年2月には会社等臨時措置法が公布され、勅令で定めた事項は株主総会の議決を経ることなく実施されるにいたった。
社長を生産責任者としたことに伴い、常務取締役以上全員が会社の代表権を失うこととなった。
しかし当社としては取締役社長、常務取締役の役職名はそのまま存置することとした。
同年5月には定款の改正を行って取締役社長を常務取締役同様、常置することとしている。
この間、戦局は昭和18年2月のガダルカナル島撤退を転機にしだいに憂色を濃くしはじめ、19年1月には東京と名古屋に初の疎開令が発令された。
さらに同年11月B29による空襲が本格化し、戦局の悪化が本土においてもひしひしと感じられるようになってきた。
4. 戦時下の生産と技術
戦時中、伊丹製作所は陸海軍向けの無線機類・計器類の開発生産にたずさわり工場従業員の6割以上がこれに従事していた。
昭和15年ころから航空機用無線機、爆弾投下機、油糧計および航空機用ジャイロ、各種指示計器等の生産を開始したが、このうち重爆撃機用無線機10台を製作納入したのが、当社における軍需生産のはじまりであった。
16年から18年にかけて、軽爆撃機用無線機および戦闘機用無線機を月500~1000台生産したのをはじめ、地上対空無線機、敵レーダ探知装置、機上用レーダ装置、友軍識別機、地上用単指向性レーダの試作や製造をつづけた。
このころは開発研究も製造も一体となった開発測実用化の時代であった。
伊丹製作所構内の本店研究部は18年11月陸軍多摩研究所塚口研究室に、その後海軍目黒研究所の分室にも指定された。
当時の研究テーマは真空管、無線通信・無線応用機器、イグナイトロンとその応用、材料の研究とその応用、さらに指向性直視装置、航空機用自動方向探知機、超短波受信機などであった。
19年3月本店研究部は研究所に昇格した。
一方17年12月に本店生産技術部を発足させ、設計・製造管理面も着実な前進をつづけたが、戦争がたけなわとなり労働の構成と質が変容していったため、生産管理技術の効果的な展開は戦後にまつことになる。
5.新工場のあいつぐ設立
太平洋戦争が激烈になり兵器の損耗が甚大となるに従って、国をあげての生産力増強のため、発電設備、工業設備、軍需品の受注が著しく増大した。
当社は既設工場の拡張だけでなく、新工場を次々と設立してこれに対応した。
これら新工場の多くは、当時操業を停止していた紡績工場などを買収したもので、神戸製作所などそれぞれの親工場の指導と統制のもとに生産活動をすすめた。
この時期に開設した工場には、つぎのものがある。
[福山工場]18年2月、福島紡績の工場を利用して神戸製作所の分工場として発足、航空機用電装品の生産を担当した。
[中津川工場]18年2月、岐阜県蚕業取締所跡に名古屋製作所の分工場として発足、同製作所の製品の一部を遺憾して生産増強を図った。
航空服の生産も行った。
[郡山工場]18年4月、片倉製糸の工場を利用して世田谷工場の分工場として発足、パラシュート生産の拡充を主目的とした。
19年4月には世田谷工場から独立して、噴泉爆弾の風船部の製造も手がけた。
[和歌山工場]18年6月、昭和紡績の工場を利用して神戸製作所の分工場として発足、航空機用慣性モーター等の生産を行った。
[姫路工場]18年12月、大和紡績の工場を利用して神戸製作所の分工場として発足、「マグネトー」の生産を行った。
[福岡工場]19年2月、長崎製作所の分工場として発足し、探照灯や炭鉱用電気機械器具を製造した。
これらの新工場の解説にさきだって昭和17年4月には各種銅合金、ゴム製品(化成品)の専門工場として世田谷工場が誕生している。
同工場の前身は岩崎家の援助により大正8年に設立された東京イー・シー工業で、同社は合金及びゴム製品の製造を開始し、昭和にはいってからは救命ボートや救命胴衣なども生産していた。
その後15年に当社がこの会社の経営をひきうけ、17年に吸収する運びとなったものである。
世田谷工場は19年にはベリリウム銅線の製造を開始し、またパラシュートの製造もおこなった。
かくして当社の生産体制は著しく拡大したが、規模の急膨張は熟練工や技術者、研究者の不足をきたし、空襲の激化とともに生産機能はしだいに行き詰っていった。
続日本無線史<第一部> 昭和47年2月発行からの抜粋
c三菱電機株式会社
三菱電機株式会社では、昭和13年(1938年)ころより神戸製作所において主として船舶用無線機を製作してきたが、戦争の拡大とともに軍需生産に移行し15年ころより航空無線機、爆弾投下機および飛行機用の油量計などの生産を開始した。
昭和15年12月、大阪工場(現伊丹製作所)の建設と同時に無線機製造部門は神戸より移転し、本格的な軍需生産が開始された。
航空無線機は昭和15年神戸製作所にて97式重爆撃機に装備する94式飛2号無線機を10台製作したのが始まりで、工場が伊丹に移ってからも主として陸軍用航空無線機の量産を行った。
16年から17年ごろには99式双発軽爆に装備する96式飛2号無線機(秘匿名称:菫2「スミレ」)を約500 台製作した。
このうち16年終りごろ17年初めにかけて20台を当時のシャム空軍に輸出した。
昭和18年ころは当社従業員はもちろん徴用工や京都・大阪近在の女学生、デパートの女店員、宝塚少女歌劇団の生徒など総動員で生産に従事した。
最もたくさん造ったのは陸軍戦闘機(隼号)に装備する96式飛3号(秘匿名称:菫3)無線機で月産約500台、性能は2.5から8Mc、A2,A3.出力は5から10Wであった。
また海軍航空用無線機としては18年ころ「紫電改」に装備する3式空1号無線機(秘匿名称:菫1号)。
性能は送信周波数5から10Mc水晶発振、A1,A2,A3、送信出力100W、受信はFM2A05Aを7本使用、スーパヘテロダイン式で第一局発は水晶発振であった。
このほか出力50W級の地上対空無線機(秘匿名称:樫)を10数台製作した。
また陸軍の軽爆や重爆の機内連絡用に音響連絡器を製作していたが、一方14年ころから軽爆用としてUY807A1本使用20W出力のもの、および重爆用として同2本使用の50W出力の機内通話機の開発試作を続けてきたが、ついに制式装備とならずに終戦となった。
変わったところでは17年から18年にわたり海軍航空技術廠向け3万HP風洞装置用制御機器を製作した。
これは電圧、電流をそれぞれ±1%で可変となしうる当時としては高性能のものだった。
また船形試験水槽用の制御装置なども製作した。
電波兵器としては昭和19年から20年にかけて敵のレーダ電波を探知する装置(秘匿名称:雲4)を製作し海軍の航空機に装備した。
陸軍の航空機用には波長75cmの機上用レーダ(秘匿名称:タキ3号)と友軍識別機(秘匿名称:ヒシム)を試作した。
また地上用として単向性レーダ(秘匿名称:タチ)も試作した。
c三菱電機株式会社
三菱電機株式会社では、昭和13年(1938年)ころより神戸製作所において主として船舶用無線機を製作してきたが、戦争の拡大とともに軍需生産に移行し15年ころより航空無線機、爆弾投下機および飛行機用の油量計などの生産を開始した。
昭和15年12月、大阪工場(現伊丹製作所)の建設と同時に無線機製造部門は神戸より移転し、本格的な軍需生産が開始された。
航空無線機は昭和15年神戸製作所にて97式重爆撃機に装備する94式飛2号無線機を10台製作したのが始まりで、工場が伊丹に移ってからも主として陸軍用航空無線機の量産を行った。
16年から17年ごろには99式双発軽爆に装備する96式飛2号無線機(秘匿名称:菫2「スミレ」)を約500 台製作した。
このうち16年終りごろ17年初めにかけて20台を当時のシャム空軍に輸出した。
昭和18年ころは当社従業員はもちろん徴用工や京都・大阪近在の女学生、デパートの女店員、宝塚少女歌劇団の生徒など総動員で生産に従事した。
最もたくさん造ったのは陸軍戦闘機(隼号)に装備する96式飛3号(秘匿名称:菫3)無線機で月産約500台、性能は2.5から8Mc、A2,A3.出力は5から10Wであった。
また海軍航空用無線機としては18年ころ「紫電改」に装備する3式空1号無線機(秘匿名称:菫1号)。
性能は送信周波数5から10Mc水晶発振、A1,A2,A3、送信出力100W、受信はFM2A05Aを7本使用、スーパヘテロダイン式で第一局発は水晶発振であった。
このほか出力50W級の地上対空無線機(秘匿名称:樫)を10数台製作した。
また陸軍の軽爆や重爆の機内連絡用に音響連絡器を製作していたが、一方14年ころから軽爆用としてUY807A1本使用20W出力のもの、および重爆用として同2本使用の50W出力の機内通話機の開発試作を続けてきたが、ついに制式装備とならずに終戦となった。
変わったところでは17年から18年にわたり海軍航空技術廠向け3万HP風洞装置用制御機器を製作した。
これは電圧、電流をそれぞれ±1%で可変となしうる当時としては高性能のものだった。
また船形試験水槽用の制御装置なども製作した。
電波兵器としては昭和19年から20年にかけて敵のレーダ電波を探知する装置(秘匿名称:雲4)を製作し海軍の航空機に装備した。
陸軍の航空機用には波長75cmの機上用レーダ(秘匿名称:タキ3号)と友軍識別機(秘匿名称:ヒシム)を試作した。
また地上用として単向性レーダ(秘匿名称:タチ)も試作した。
文中の無線機の型式と機器詳細について
陸軍関係
大型航空機無線機 飛1号無線機
97式重爆撃機重爆撃機用無線機 94式飛2号無線機
軽爆撃機用無線機 96式飛2号無線機(秘匿名称:菫2「スミレ」)
戦闘機用無線機 96式飛3号無線機(秘匿名称:菫3)
地上対空無線機 地2号無線機
機上用レーダ装置 タキ23
友軍識別機 タキ15-2型(秘匿名称:ヒシム)
地上用単指向性レーダ タチ17
指向性直視装置 タキ200
航空機用自動方向探知機 タキ37
機上射撃管制レーダ タキ3
超短波受信機 型式不明
海軍関係
海軍戦闘機無線機 3式空1号無線機(秘匿名称:菫1)
敵レーダ探知装置 FT-C(海軍) (秘匿名称:雲4)
陸軍関係
大型航空機無線機 飛1号無線機
97式重爆撃機重爆撃機用無線機 94式飛2号無線機
軽爆撃機用無線機 96式飛2号無線機(秘匿名称:菫2「スミレ」)
戦闘機用無線機 96式飛3号無線機(秘匿名称:菫3)
地上対空無線機 地2号無線機
機上用レーダ装置 タキ23
友軍識別機 タキ15-2型(秘匿名称:ヒシム)
地上用単指向性レーダ タチ17
指向性直視装置 タキ200
航空機用自動方向探知機 タキ37
機上射撃管制レーダ タキ3
超短波受信機 型式不明
海軍関係
海軍戦闘機無線機 3式空1号無線機(秘匿名称:菫1)
敵レーダ探知装置 FT-C(海軍) (秘匿名称:雲4)