日本帝国陸海軍無線開発史

大西成美氏の「本邦軍用無線技術の概観」をベースに資料追加

安立電気株式会社

安立電気株式会社
アンリツ100年の歩み(平成13年6月発行)からの抜粋
第2章 安立電気の誕生
第2節 戦時体制下の当社
◆軍から認められた技術と製品
当社は創業以来の経緯もあって、陸・海軍からの委嘱を受け軍用機器の開発・製造を進めた。
船舶用無線送受信機や無線通信に不可欠な基礎的測定器などの分野は、当社の得意とするところであった。
当社は無線機メーカとして、陸軍には地上部隊用、航空部隊基地用、機上用の無線通信機器や、地上方向探知機を製作し、海軍には艦船用送信機、同受信機、航空機用送受信機、方位測定機などを納入した。
その他、航空機高度測定用受信機、逆探記録探索機、自動気象観測通信機なども製作した。
方向探知機(海軍では方位測定機と呼称)は地上から味方の航空機を誘導するために不可欠な機器として、軍はその重要性に着目し大正の中期には研究にとりかかったが、その試作、生産に当社も携わった。
陸軍における方向探知機の研究は、昭和に入ると諜報用、誘導用として活用するために移動式長・中波用方向探知機に向けられた。
この研究をもとに開発され、昭和11年(1936)に制式制定された94式1号特殊受信機の生産は当社が担当した。
同機は周波数範囲100~2,000Khzのオートダイン方式受信機と辺長1mの枠型空中線からなり、回転機構と受信機は天幕内に収容された。
短波用の研究はマルコーニDF12形短波方向探知機を購入することから始まった。
11年に制式制定された94式5号型特殊受信機はマルコーニ機のU形アドコックを、無線方位計(ゴニオメータ)とH形空中線で置換したものである。
5号型受信機は周波数範囲1.500~20.000Khzのスーパーヘテロダイン受信機で、トラックに乗せて移動することができた。
5号型はその後、航空部隊用に改良された地1号方向探知機として開発され、太平洋戦争では大いに活躍した。
18年には純固定式(カウンタポイズを地下に埋設、空中線をU形とし、受信機を地下に置く方式)を開発した。
これは19年以降の気球爆弾追跡に活用された。
海軍用としては、93式短方位測定機(16号方受金物)を製作した。
アドコック空中線と無線方位計を組み合わせた短波方位測定機であり、これを改良した93式改1は終戦まで使用された。
また、中波ではし2式中方位測定機(31号方受金物)を開発、生産した。
◆軍需会社に指定
昭和16年(1941)12月8日、わが国は太平洋戦争に突入した。
以後、全国の生産工場は軍需工場化し、必至に軍需機材の生産に取り組むことになる。
18年11月には商工省が軍需省と改められ、全国9地区に軍需監理部が設置されて、行政面で積極的な指導が行われるようになった。
当社も13年2月に本社工場が陸軍と海軍の管理工場に指定され、一層軍需産業への傾斜を強め、17年5月に本社工場が重要事業場に指定された。
19年4月には軍需会社に指定され、法律に基づき会社を代表する小屋社長は生産責任者に就任した。
さらに新たに開設した吉田工場、名古屋工場、丸子分工場も相次いで軍需工場となった。
本社工場は無線機器、吉田工場は有線機器、名古屋工場は航空機関係機器をそれぞれ製作した。
[本社工場][麻布工場]
12年と13年に隣接地を買収した結果、20年の初めには敷地面積3,181坪、建屋面積5,464坪に増大した。
しかし、同年1月には強制疎開で1,721坪が取り壊され、5月には戦災で829坪の建屋が失われた。
[吉田工場]
軍需生産の飛躍的伸びを予想して15年7月に開設された吉田工場(横浜市港北区新吉田町)は、敷地面積3万1,433坪、建屋面積1万3,000坪(その後の増設分を含む)であった。
その後の拡充で最盛期の従業員数は3,635人となり、本社工場をしのぐ規模となった。
19年末には計器、有線、無線、音響機、超短波、部品の各工場があり、搬送電信電話装置、交換機、電話機、無線電信電話機、磁気録音機、計器及び測定機、蓄電器、抵抗器などを生産した。
16年7月の鶴見川氾濫で工場内に水があふれ、1ヶ月の操業不能という事態に追い込まれたものの、17年から20年までの4年間に搬送電信電話装置1,230台、交換機1,355台、電話機2万2,040台、無線電信電話装置2,220台、磁気録音機30台、計器及び測定器7万7,400台、蓄電器197万400個、抵抗器99万6,600個を生産した。
しかし、20年4月15日の米軍機の空襲によって被災し、工場、倉庫、寄宿舎など合計11棟が焼失した。
工場長以下職員の必至の防火作業が奏功して、電話機、無線電信電話装置、蓄電器、抵抗器などの生産設備は無事だったが、搬送電信電話装置、交換機、磁気録音機、計測器などの生産が不能になった。
[名古屋工場]
18年2月、名古屋市中川区八島町にあった日東紡績株式会社の名古屋工場を買収して、航空関係機器及び各種無線通信機を専門に生産する名古屋工場を開設した。
敷地面積は2万797坪、建屋面積1万1,600坪(106棟)で吉田工場に次ぐ大規模工場となった。
現地で新工員を採用したほか、山梨、静岡から九州方面にかけて募集した徴用工を養成して、飛行機搭載用受発信装置や落下傘用受発信装置を生産した。
19年の従業員数は1,556人に達した。
しかし同工場は、東海・南海大地震(19年12月7日)と名古屋大空襲(20年3月14日)によって壊滅的な被害を受けた。
特に名古屋大空襲では工場建物の大半を焼失し損害額は1,120万円に達した。
[その他の工場]
12年8月には、陸軍の27号受信機の実施試験を行うため東京市世田谷区廻沢町に廻沢派遣所を開設し、16年には組立工場と試作室を増設して廻沢分工場と改称した。
17年11月には東京市蒲田区丸子町に、無線機筐体の自給自足を目的とした丸子分工場を開設した。
また18年末、東京市目黒区上目黒町三丁目の目黒高等無線学校の校舎を買収し、翌19年1月に無線受信機の研究拠点として目黒研究所を開設した。
この目黒研究所の隣接地には19年9月に目黒分工場を建設した。
19年2月には、東京市大森区新井宿にあった東京熱電線製造所を買収して、抵抗線を生産する大森工場を開設した。
◆工場疎開始まる
当社は軍需に支えられ業績は飛躍的に向上した。
運転資金、設備資金、生産材などの調達は十分で、労働力は国民徴用令、学徒動員令、女子挺身隊勤労令などによって確保することができた。
最盛期には正規従業員4,800人に、臨時従業員4,200人、産業報国隊員1,000人を加えた約1万人が働いていた。
しかし、ミッドウェー海戦を機に戦局は悪化の一途をたどった。
日本の制空権は完全に失われ本土への空爆が不可欠となった。
このような情勢のなか、昭和18年(1943)9月には閣議で官庁の地方疎開を決定、同年12月には文部省が学童の縁故疎開測振策を発表した。
20年に入ると軍事施設や軍需工場だけではなく、一般市街地も爆撃の対象になった。
当社は工場疎開命令に基づき生産設備を安全な地域に移設し、軍需機材の生産を続行することになり、北陸製造所、北信工場、和村研究所、宮城研究室をそれぞれ開設した。
北陸製造所は20年5月に、北国通信機株式会社(石川県大聖寺町)を買収して開設され、名古屋工場の組立、蓄電器、部品、化工、計器、試作の各工場を疎開した。
宮城研究室(宮城県宮城郡広瀬村)は吉田工場の電気音響装置の研究を引き継ぐため20年6月に開設され、主として秘密電話装置の試作・研究にあたった。
北信工場(長野県埴科郡屋代町)は、本社工場および吉田工場の疎開工場として20年7月に疎開を完了したが、ほとんど稼働せずに翌月の終戦を迎えた。
須坂工場(無線部)、屋代工場(同)、松代工場(有線部)の3工場があった。
和村研究所(長野県小県郡和村)は、目黒研究所が空襲で焼失したのを受けて20年7月に同地区の公会堂と農家の蚕室を借り入れて、開設された。
このように当社は、戦局が極めて悪化した20年5月以降主要工場を安全な地域に疎開させたが、本社工場、吉田工場、名古屋工場など主要工場のほか、大森、目黒、丸子の各分工場が空襲を受け、被害は総額5,000万円に達し多大な損失を被った。
日本無線史<第一部> 昭和47年2月発行からの抜粋
a安立電気株式会社
Ⅲ生産機種(戦時中)
A陸軍用地上無線機器
94式3号特殊受信機 移動式傍受用長波受信機 50月/台 昭和8~19
27号受信機 標準型短波受信機 800月/台 昭和8~20 ※1
94式対空2号無線機 地上部隊用 不明 昭和8~16
地1号無線機 遠距離対空用 400月/台 昭和19~20
地2号無線機 中距離対空用 不明 昭和19~20
地3号無線機 近距離対空用 100月/台 昭和19~20
地4号無線機 空挺部隊用 100月/台 昭和19~20
B陸軍用航空無線機器
飛1号無線機 航空部隊用 35月/台 昭和15~18
94式飛2号無線機 航空部隊用 30月/台 昭和16~17
96式飛3号無線機 航空部隊用 15月/台 昭和17~18
飛5号無線機 航空部隊用 15月/台 昭和16~17
タキ15友軍識別用送受信機 航空機用 不明 昭和19~20
C陸軍用無線方向探知機
94式5号特殊受信機 半固定式短波方向探知機 15月/台 昭和9~19 ※2
地1号方向探知機 航空機誘導用 20月/台 昭和16~18 ※2
飛1号機上方向探知機 航空機帰還用 20月/台 昭和16~17
飛2号機上方向探知機 航空機帰還用 25月/台 昭和17
タチ20超短波警戒機 地上用 10月/台 昭和19~20 ※3
D海軍艦船用無線機器
95式短3号送信機(CC3金物)艦船用 20月/台 昭和8~19
95式短4号送信機(CC4金物)艦船用 40月/台 昭和7~19
95式短5号送信機(CC5金物)艦船用 30月/台 昭和13~19
97式特5号送信機(CL5金物)潜水艦用 30月/台 昭和17~20
E26超長波受信機 潜水艦用水中受信機 50月/台 昭和16~20
E海軍用航空無線機器
96式空2号無線電信機(H2金物)2座航空機用 20月/台 昭和17~19
96式空3号無線電信機(H3金物)3座航空機用 20月/台 昭和17~19
N2金物 単座航空機用 30月/台 昭和18~20
N3金物 単座航空機用 30月/台 昭和18~20
F海軍用無線方向探知機
93式短方位測定機(16号方受金物)艦船用 8月/台 昭和8~17
2式短中位測定機(31号方受金物)陸上および艦船用 25月/台 昭和17~20
一方、同社の従来よりの製品である船舶用無線機は、各船舶会社の所有する船舶が、すべて陸海軍の輸送船として徴用せられたこと、および原材料欠乏による代替品使用の必要から、それらに装備する無線機も統一規格をもって各無線会社が製造するようになった。
同社が生産した戦時標準船用無線機は月産約10台である。
※1 本受信機は同社が陸軍通信学校の指示により開発した全波スーパヘテロダイン式受信機で、初めて高周波増幅器および検波の同調と局部発振器の同調との単一調整を実現したもので、上表中の各種地上用、対空用無線機の受信部は、すべて本受信機に依って較正されている。
※2 本機は逓信省電気試験所にて開発した短波用ゴニオメータ式方向探知機を同社が軍用移動式に適用したもので、相手無線局の位置推定および航空機誘導用として偉大な効果を発揮した。
※3 本機は日本電気株式会社研究所の開発によったもので、超短波を使用し、300Km先の敵機をブラウン管上に明示せしめる電波探知機で、国内各地の海岸に設置された。

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参考文献
本邦軍用無線技術の概観 大西 成美
日本無線史 第九巻 電波監理委員会
日本無線史<第一部> 昭和47年2月発行
アンリツ100年の歩み(平成13年6月発行)
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