日本帝国陸海軍無線開発史

大西成美氏の「本邦軍用無線技術の概観」をベースに資料追加

2.陸軍無線技術の沿革

2.陸軍無線技術の沿革
 
明治時代の末期にマルコニーの電波式無線電信の可能性が実証されると共に学術誌或は新聞紙上にその事を知った我国においては、当時通信事業は政府の管掌するところであったため、先ず逓信当局において調査研究が始められ、電気試験所においてすでに明治30年末、月島海岸と芝金杉沖の船との間に海上1浬の通信試験を行っている。
海軍においても之に注目し、33年に無線電信調査会を設置、種々研究を重ね、34年には34式無線電信機を制定しているが、陸軍に於いてはこれに後れること10年、明治43年に至って無線電信調査会が発足、逓信省式により、中野、甲府及び宇都宮に固定無線所を開設し、通信実験を行い、またテレフンケン式移動無線機を購入し各種試験を重ね、大正2年にはこれをそのまま正式に採用し、乙種移動式無線電信機とした。
これは火花式送信機、鉱石検波受信機を使用、送信電源は6HP発動機駆動の85V500C/S 2KVA発電機を使用した。
航空無線機については、大正8年頃よりフランス陸軍のY型機上用送信機とA型地上受信機による片方向通信の試験を行ったのが最初である。
当時の飛行機の使用方法として、射撃観測及び偵察任務が主であったため、機上→地上の一方向通信でも利用価値はあったし、真空管増幅器を使用しない鉱石検波の受信機では、機上での受信は不可能であったのである。
本送信機は風車発電機による50V900C/S 100W程度の電力をもって、常用周波数940~2,150kc(680kcまで送信周波数を下げることも可能)であり、廻転火花電極数を変えることによって300~1,800C/Sの間6種の受信可聴周波数を得ることができる。
この音調の差異によって同一周波を多重使用できるように考えてあり、まことに気の利いた設計のようである。
降って昭和2年に至り、漸く前近代的な一連の無線兵器が正式制定された。
これが15年式乃至88式無線機である。(明治、大正時代には兵器の正式年代として年号をとっていた。
38式歩兵銃は明治38年制定のものというが如くである。大正年代が15年で終わったので、昭和2年制定の兵器は2式と称すべきであるが、これは大正2年制定のものと紛れるおそれがあるので、皇紀年号の下二桁を以て正式名称とした。従って昭和2年制定のものは87式、昭和9年制定のものは94式、15年制定のものは100式、海軍にあっては0式等と呼称した。)
この15年式乃至88式は、真空管式であるが何れも長、中波を使用し、後述するごとく何れも英、仏両国無線機をそのまま採用したか、或はそのデッドコピーである。
勿論自励発振直接輻射方式であり、オートダイン受信機であるので波長計を備えておる。
この頃すでに民間及び海軍では短波の実用性を確認し、逓信省においては大正15年において国内連絡用短波無線網が建設され、海軍においても、大正13年より短波の試用を始め、14年には出力500Wの送信機を完成、15年には15式短波送信機として制定されておるのであるが、陸軍においては、88式においても依然長、中波を使用しておったのは、当時短波通信は遠距離通信の可能性から発展し開発されて来たので、陸軍々用無線のごとく10~数100Km程度を大正とする通信には不適当と考えられ、技術的に困難な点が多かったのに由るのであろう。
また従来手馴れた長波通信の安定性から脱却することに踏み切れなかったのも一つの原因であると考えられる。
此の間昭和2年から2ヶ年間にわたり、通信、陸、海両軍の協力により短波伝搬試験が大規模且つ組織的に行われ、平塚海軍工廠内より3Mc~20Mcの間各種の周波数を発射し、これを距離30Km~8,360Kmの間の69地点に於いて受信してその結果を集約し、短波通信が利用可能であると判断した。
87式無線機の制定後約5カ年にして、新技術の利用による無線機の改新を企画し、昭和6年より研究を開始、同11月に至り94式(一部96式)各号無線機が制定された。
茲に漸く近代的な無線機が創成され、爾後補充的に制定された各機と共に今次対潜に於いて主用されたのである。
94式各号無線機は100Kc程度のLFから60Mc程度のVHFに至るまでの周波数を各機に応じて使用しているが、実際に使用されたのは1Mc~6Mc程度とVHF帯である。
使用周波数が概ね広いので(例えば対空2号機は送信950Kc~7.5Mc、受信140Kc~15Mc)中間周波トランスなども2組をプラグインする必要があり、殆ど使用しないコイル類を持って廻らなければならなかったが、前記87式無線機との入替時期における相互通信を可能にするための処置であったものと思われる。
送信機はVHF用を除き水晶発振方式で、小型機にあっても直熱送信菅を使用した発振直接輻射方式をとり、器械の小型化と簡易化を図っている。
回路は何れもハートレー回路とし、グリッド回路に水晶をいれておるので、水晶片を抜き電極を短絡する(水晶片を抜くことにより自動的に行う)と自励発振が可能であるごとく設計されている。
送信電源は大型機は発動発電機(多くは2衝程発動機を使用)、小型機は手回発電機、車載機は蓄電器とコンバーターを使用している。
受信機は、VHF用は超再生、最前線用小型機の一部がオートダイン方式である外、すべてシングルスーパーである。
受信機電源は、車載機は蓄電器とコンバーター、其の他は乾電池であって、蓄電池用は6V傍防熱菅を使用している。
乾電池用には1V直熱菅(134,135,109,111,133)等のシリーズを特に開発して実用しておるが、此等の真空管は一般には市販されていない。
何れもGMが低いため、殊に周波数変換菅の発振部において、回路の損失が少しでも増加すると発振が停止するので使い難かった。
又各段の利得が低いので、これを補うため第2検波はオートダインとし、電信受信の場合は発振させて使用する。
部品は相当優秀で、ことに低周波トランスは高級ニッケルコアーを使用し、極めて小型に造られているが、可変コンデンサーの絶縁材、プラグインコイルの端子等がフェノール樹脂成型品であり、切削加工を行っていたためその切断面から吸湿し、絶縁の低下を来したものが多かった。
コイル等も防湿処理が施されてない等、全般的に熱地、高温度地における使用に関する留意がなされていないのは当時の予想戦場からして、止むを得なかったものと思われる。
空中線柱は、VHF用及び最前線用の小型機(竹製)の外殆どマグネシウム系軽合金製で、取扱容易であり、錆の発生などなく優秀であった。
また、師団通信隊用以上の機種にあっては、送信所を隔離して操縦するための遠操装置をもっていた。
これは九二式電話機と共用して、電話、ブザーによる打合せ(発電、停止、高圧の接断)を行うと共に、直流回路を以てリレーを動作し電鍵操作を行うものである。
通信方式は電信電話共単信方式であるので、送受切替の操作を要した。
94式無線機の制定後、次期器材としての研究が開始された。
その目標は水晶片の不足を見越して自励発振による安定な周波数の発射、運用を便にするためブレークイン或はプレストーク方式とすること等であって、各機種にわたって努力が続けられ、或ものは(3式車輛無線機甲、同乙、同丙等)は正式制定、量産に移されたが、大部は試作程度に止った。
航空部隊用としては昭和15年頃迄に地1号、地2号、地3号、地4号、飛1号、飛2号、飛3号、飛4号、飛5号等の無線機が制定、量産せられたほか、原始的な電波兵器として超短波警戒機甲が開戦直前に完成を見た。
戦中に於いては通信兵器の開発完成を見たのは前掲3式各号に止まり、電波兵器の研究に注力が傾注され、超短波警戒機乙、電波標定機等が制定された。
米、英国等にいても、この間同様に軍用無線技術の発達を見たのであるが、我国の無線器械に比し、概ね大型であり、また我国におけるが如く軽合金等の貴重な資材を使用しなかったため、重量も概ね大であった。
真空管については開戦直前に完成したミニチュア菅が使用されたものもあり、小型機材については、我国に比し数日の長があった。
また、水晶発振子の試用をできる限り避けておるもののようで、水晶片は周波数の較正等にむしろ多く使われていた。
これがため自励発振によるものが多かったが、発振用水晶を殆ど産出しない我国において、多くの水晶片を使用し、ブラジル等の推奨供給源を手近に有する米国の機材において、かえって水晶の使用が少なかったのは奇妙な現象である。
我国無線機においては部品の1部の小型材料を除き、所謂無線機器メーカーが一貫して機材の製作、組立を行っていた様であるが、外国においては各部品毎に専門メーカーが技術を競い、例えば無線機用バネについては写真機メーカーであるコダック社の製品を使用し、堂々とマニュアルにその旨明示してあるが如く協力体制がとられた。
また、量産のために、機械技術者との協力も充分であり、機構、シャーシー等にダイカストを採用するなど、その成果をあげていた。
一般民需用無線機をそのまま軍用に採用したものも多く、ハマランド社製スーパープロ受信機がBC-779系として、またハリクラフタ社のHT-4型アマチュア無線用送信機がBC-610として採用され、極めて多量に生産されたるごとき例はあまりにも有名である。