日本帝国陸海軍無線開発史

大西成美氏の「本邦軍用無線技術の概観」をベースに資料追加

5-5-1 軍用簡易テレビジョン装置

5-5-1 軍用簡易テレビジョン装置

電視(テレビジョン)が実用されれば事実上著しい効果をもたらすことは多言を要しない所であるが、陸軍では研究所期に於ける走査にニポー円盤を用いるようなものでは軍用として実用の可能性もないので、暫く研究着手を見合わせ民間における進歩を俟ったのである。
然るに昭和5年(1930年)末ファーンズワースにより特殊走査管の研究が発表され、我が国に於いても東京電気株式会社がこの研究に乗り出し、実用の可能性に関して稍々見通しが着いたので昭和9年(1934年)度から研究項目とし研究計画に載せ本格的基礎研究に着手した。
当時考えられた電視の用法は主として敵情又は戦況の後方に於ける視察にあったから、当時の技術として已むを得なかった中介フィルム式に適応させ、繋留気球等から活動写真に撮影し、そのフィルムを落下し、地上で至短時間に現像その他の処理を行って、これを送像装置にかけると云う計画であった。
陸軍では送受信装置の研究試作を東京電気株式会社に依頼して行った。
送像走査管は走査線数120本、毎秒像数25枚のもの、受像はブラウン管に依るものであった。
結果は軍用として実用を距ることなお遠いものであった。
フィルム処理の処理方法は調査の結果、現像、定着、水洗、乾燥、送像、剥膜、感光膜定着等の処理をエンドレスに行い得る可能性とその試作も送受像装置の研究に比すれば短日月の間に竣工し得ることが判ったので、送受像装置の研究進歩を持つこととし直ちに着手しなかった。
この処理は後にアイコノスコープの出現によって中介フィルム式の必要が薄らぎ、反って徒労を避け得た件名なものであった。
その後走査線を200本に向上したが、この種走査管では早晩行き詰りを予期していた折、アイコノスコープ出現して再び曙光を認めたのである。
東京電気株式会社普段の努力研究により逐次進歩して終には走査線441本、画面比3対4、フレーミング25、フィールド50の跳越走査にまで達した。
以上送受像装置の研究進展に伴い、無線送受信機の研究試作の段階に達したので、東京電気無線株式会社の完成した2キロワット水晶制御式超短波無線機に範を採り、自動貨車装載式として、その試作を同社に依頼したのである。
陸軍ではかくして電視の実用化愈々近きにありとの目途を得、専任者を定めて深刻に研鑽せしめつつあったが、爾他諸研究の測振と経費の重点使用による不足等により昭和12年(1937年)度より本研究を一時打切りしなければならなくなった。
本研究に於て良く陸軍に協力し精励努力した送受像装置関係の長島躬行、無線装置関係の今岡賀雄の努力は一通りではなかった。
なお、前記試作送受像装置及び無線送受装置に関しては日本テレビジョン学会発行のテレビジョン年報に詳記されているので詳細に就いては、これを参照されたい。
 
東京芝浦電気株式会社八十五年史には応用装置として、昭和18年には、ビデオ信号レベルによる送受像装置を活用した軍用簡易テレビジョン装置を開発している。
  

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参考文献
本邦軍用無線技術の概観 大西 成美
日本無線史 第九巻 電波監理委員会
東京芝浦電気株式会社八十五年史